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江戸の町方の衣と食

 近世の服装は庶民を中心に発達し、現在の和服の原型ができあがった。とくに職人や商人の間では、半纏(はんてん)・法被(はっぴ)などの機能的な仕事着が定着し、職業に応じて様々な形や意匠でつくられた。  

 裕福な家庭では、祭礼や芝居見物の折に着物を新調して着飾って出かける光景も見られたが、普通は古着を購入するか、端切れ(はぎれ)を買って自分で仕立てた。衣服を大切に長く着ることが通念とされ、何度も洗い張りをし、仕立て直し、破れをつくろいながら最後には雑巾(ぞうきん)やおむつになるまで利用した。履き物・髪型・化粧などでも、華やかな町人文化のもとで様々な流行がみられるようになった。

 一方、江戸時代は食生活においても大きく展開した。まず、食事の回数が朝夕の一日二食から朝昼晩の一日三食に変わった。江戸の人々の日常の食事は簡素なのであったが、祭礼や行事の時には大きな商家などで盛大な膳(ぜん)が振る舞われた。  

 また、都市社会の成熟を背景に、高級な料理茶屋が出現した。料理本が数多く刊行され、名物菓子を商う店も多かった。単身者の男性や長屋住まいの小家族が多い江戸の町では、手軽な外食がさかんで、納豆や惣菜(そうざい)の行商、そば・寿司・天ぷらなどの屋台が繁盛した。  

 食通を自認する江戸っ子は、江戸前(えどまえ)の海の幸や近郊の旬の野菜を楽しんだ。とりわけ初物好みは有名で、初鰹(はつがつお)などの初物を高価をいとわず競って買い求めたため、しばしば禁令が出されるほどであった。こうした江戸独自の食文化は、現代の食卓へと受け継がれている。

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