江戸の村と島の生活 【特産品】

 村から年貢を取り立てることを財政の基盤としてきた幕府や大名などは、積極的に灌漑用水(かんがい)や河川流路、新田(しんでん)の開発をすすめて生産量の増加をはかった。きめられた年貢を納入したあとの余剰作物を自家消費にとどめていた村では、年貢の一部が金納で認められるようになると、しだいにそれぞれの地域性を生かした江戸向けの商品作物を多く作るようになり、やがてそれらは地域の特産物として広く知られるようになっていった。

 こうした商品作物の流通は、関東の農村・山村はもとより漁村や伊豆七島にも貨幣経済の浸透をもたらすこととなった。身分や家柄という、それまで村社会の秩序を形成していたものに代わり、富裕な者が村内の有力者に成長するといった変化がしだしにあらわれるようになった。

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江戸から第1番目の宿屋である品川宿(しゅく)(東海道)、千住宿(日光道中・奥州道中)、板橋宿(中山道)、内藤新宿(しんじゅく)(甲州道中)は、江戸の玄関口であった。これらの宿は<江戸四宿(ししゅく)>と称され、しだいに行楽や遊興の地としても知られるようになった。 宿では、公用の物資や人を次の宿まで送る伝馬(でんま)の制が課さられ、参勤交代(さんきんこうたい)の制度化により本陣(ほんじん)・旅籠屋(

江戸と関東一円を結ぶ交通手段には、人馬を使った陸上輸送のほか舟運が重要な役割を果たした。 銚子から出た船は利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下り、小名木川(おなぎがわ)を経て、江戸に到達した。江戸には穀物や木綿、さらに酒・醤油・味醂(みりん)などの醸造品を運び、帰りは日常雑貨や江戸の文化を運んだのである。 一方、荒川の支流の新河岸川(しんかしがわ)は1647年(正保4)、川越藩主松平信綱(のぶつ

江戸初期、人々が口にする蔬菜(そさい)(副食野菜)は、手近なところで生産されたが、町の発展にともないその生産地は葛西、駒込、目黒などの江戸周縁へ広がっていった。さらに江戸の人口の増加による消費需要の高まりは、練馬の大根、小松川の菜など、しだいに外へ外へと生産地を広げていった。 青物(あおもの)を出荷した農民は帰りに、日用雑貨や加工品などを買い求めたほかに、市中の灰や下肥(しもごえ)を肥料として買っ