本石町「時の鐘」江戸時代の時法

 江戸には「時の鐘」があり、これによって人々はおよその時刻を知ることができた。鐘撞役辻源七(かねつきやくつじげんしち)の由緒(ゆいしょ)によれば、当初江戸城内にあった「時の鐘」は、1626年(寛永3)に日本橋本石町三丁目の200坪余りの土地に移転された。この鐘撞役は、「時の鐘」が聞こえる範囲にある町の住人から、1ヶ月銭4文ずつの「金役銭(かねやくせん)」を徴収する権利をもち、これが「時の鐘」の運営資金となった。その後、市街の拡大とともに「時の鐘」の数もしだいに増加していき、最終的には9か所となった。


江戸時代の時法

  現在の時法は、1日を24等分して基本的な単位「1時間」を設定する定時法(ていじほう)である。これに対して江戸時代は、昼と夜の長さをそれぞれ6等分して基本的な時間単位「一時(いっとき)」を設定する不定時法(ふていじほう)が使われていた。そのため、春分・秋分を除けば「一時」の長さは昼と夜で異なり、また同じ昼の「一時」でも季節によって長さが異なっていた。

関連記事

すべて表示

村から年貢を取り立てることを財政の基盤としてきた幕府や大名などは、積極的に灌漑用水(かんがい)や河川流路、新田(しんでん)の開発をすすめて生産量の増加をはかった。きめられた年貢を納入したあとの余剰作物を自家消費にとどめていた村では、年貢の一部が金納で認められるようになると、しだいにそれぞれの地域性を生かした江戸向けの商品作物を多く作るようになり、やがてそれらは地域の特産物として広く知られるようにな

江戸から第1番目の宿屋である品川宿(しゅく)(東海道)、千住宿(日光道中・奥州道中)、板橋宿(中山道)、内藤新宿(しんじゅく)(甲州道中)は、江戸の玄関口であった。これらの宿は<江戸四宿(ししゅく)>と称され、しだいに行楽や遊興の地としても知られるようになった。 宿では、公用の物資や人を次の宿まで送る伝馬(でんま)の制が課さられ、参勤交代(さんきんこうたい)の制度化により本陣(ほんじん)・旅籠屋(

江戸と関東一円を結ぶ交通手段には、人馬を使った陸上輸送のほか舟運が重要な役割を果たした。 銚子から出た船は利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下り、小名木川(おなぎがわ)を経て、江戸に到達した。江戸には穀物や木綿、さらに酒・醤油・味醂(みりん)などの醸造品を運び、帰りは日常雑貨や江戸の文化を運んだのである。 一方、荒川の支流の新河岸川(しんかしがわ)は1647年(正保4)、川越藩主松平信綱(のぶつ